ぶらり、北海道
広大な大地
ウニを獲る漁師
6月に北海道を20日間、旅してきました。
北海道は学生時代(56年前)に40日間、放浪したことがあります。
当時の学生はテントやシュラフをリュックに入れ、野宿しながら貧乏旅行をしていました。。
最近のリュックは縦長ですが、昔は両サイドに大きなポケットが付いていたので横長で、列車内の通路を横歩きしないと通れませんでした。
それゆえ「カニ族」と呼ばれていました。
今回は車なので、新潟から小樽にフェリーで行きました。
現在の昭和新山
半世紀前の昭和新山
半世紀も経つと自然も大きく変わるものです。
一番驚いたのは、“昭和新山”が頭部だけ火山性岩山で中腹まで樹木で覆われていたことです。
この山は昭和18年(1943年)に火山活動により麦畑が隆起してできた山です。
前回訪れたときは裾野から火山性岩山で硫黄の噴煙があちこちで立ち上っていました。
当時は規制もなかったので山頂まで登りましたが、地熱でクツ底が熱くなったのを覚えています。
富良野の麦畑
美瑛の青い池
また、当時はあまり脚光を浴びていなかった“富良野”や“知床半島”は今や一番の観光スポットになっています。
さすがに富良野の広大な“麦畑の丘陵”や美瑛の“青い池”は絶景です。
また、知床のオシンコシンの滝も面白い滝です。
知床のオシンコシンの滝
知床半島
旅行中天気が悪く海岸線では濃霧に包まれ、宗谷岬・納沙布岬・襟裳岬・神威岬などでは何も見えませんでした。
“北海道には梅雨が無い”と言われますが、晴れたのは6日だけでした。
これからは6月の北海道は梅雨と思って旅した方がよいと思います。
襟裳岬
エゾカンゾウ(信州のニッコウキスゲと同種)
“大自然”観光だけでは物足りないので、今回はアイヌ民族の遺跡や戊辰戦争の爪跡も探索しました。
日本史の中でアイヌ民族の歴史はほとんど出てきませんが、部族間の利害をめぐり争いも多々あったハズです。
500くらいあると言われるチャシ(砦)を今回その一部ですが観て回りました。
多くは要害堅固な岬に造られていますが、今は土塁と空堀が残っている程度であまり整備されていません。
阿寒湖と白老では古式舞踊を観ましたが、部族によって踊り方も違うでしょうがそこまでは見抜けませんでした。
アイヌ民族降臨伝説のある“二風谷”コタンには大きな集落が復元されています。
納沙布岬のチャシ(砦)
二風谷コタン
チャシの土塁・空堀
阿寒湖のコタン
また、“五稜郭”をはじめ、蝦夷地支配を任された松前城や江差で座礁・沈没した“開陽丸”(復元)なども観ました。
開陽丸は幕府がオランダに発注して造らせた軍艦で、その操縦方法を習得するために榎本武揚ら15名がオランダに派遣されました。
戊辰戦争では榎本が幕府軍の軍艦として指揮しました。
土方歳三はかっこよく討ち死にしましたが、榎本は留学し国際法や西欧文化に見識を深めただけあって、生き延びたのちに明治政府に召喚され外務大臣など要職を務め、また東京農大の創設者でもあります。
北海道の街では、函館・小樽・松前・江差が歴史があり面白いです。
函館・五稜郭
函館・レンガ造りの倉庫群
軍艦・開陽丸の大砲
江差・豪商の家
蝦夷地支配の松前城
函館・ハリストス正教会(ロシア正教会)
江差・開陽丸(復元)
江差・街並み
松前・松前城城門
今回の旅で一番強く感じたことは、アイヌの歴史・文化や和人がいかに搾取し抑圧してきたかなどを日本史の中で取り上げるべきだということです。
また、50年の年月は自然をも大きく変えるということです。
50年先には”昭和新山”は全山緑に覆われて普通の小山になり、”青い池”の枯れた立木は朽ちて無くなり、観光スポットでなくなるかも知れません。
【注意事項】
鹿の親子
鹿が突然道路に飛び出してきます。
セニョールは2度ぶつかりそうになりました。
北海道は道路幅も広く直線なのでついついスピードを出しがちですが、要注意です。